KAI HIRANO

平野 甲斐

タイから帰国後富山永住権獲得

13

MF

プロフィール

ニックネーム
かいくん
出身地
島根県
生年月日
1987年8月16日
身長 / 体重
175cm / 73kg
血液型
O
利き足

経歴・所属

サンフレッチェくにびきFC

立正大学淞南高校

びわこ成蹊スポーツ大学

カターレ富山

ブリーラムユナイテッド(タイ)

セレッソ大阪

アーミーユナイテッド(タイ)

ランパーンFC(タイ)

富山新庄クラブ

セールスポイント

ドリブルからのクロス

サポーターへ一言

仕事を朝から晩までして、休みもなく頑張ってる新庄の選手に何か、、心動かされます。
元気ほしいとき僕らを見に来てください。後悔させません。

選手エピソード

お母さん生んでくれてありがとう

2万人に満たない人が住む小さい島。三兄弟の姉二人の末っ子として誕生しました。

幼稚園の頃から女性の保育士さんを相手にサッカーの試合をしていました。

隠岐の島にサッカーの文化はなく、時々映る日本代表の試合を見て何となくサッカーを始めたんだと思います。
保育園の卒業色紙にある将来の夢はサッカー選手でした。

小学校に初のサッカーチーム誕生!

小学四年生の頃に初めて隠岐の島にサッカーチームが出来ました。週に二回。練習試合は人数が少ないのでもちろんできません。

サッカーをする環境としては良いものではありませんでした。コーチの勧めで、トレセンを四年生で受けに行き、日本サッカー協会の「トレセン制度(ナショナルトレーニング制度)」県トレセンまでいけました。

当時の力は県トレセンレベルではなく、指導者の方が隠岐の島の物珍しい選手を贔屓してくれたんだと今でも思ってます。(リフティングが30回もできなかったから。笑)

親と喧嘩してもサッカーを、そして恩師との出会い

レベルの高い選手に触れて、中学の進学をどうするか迷っていました。というのも、隠岐の島の中学にサッカー部はなく、両親からも隠岐の島に残れと言われていたのです。どうしてもサッカーをレベルの高いチームで続けたいと両親を3ヶ月説得し親元を離れ小学六年生で隠岐の島を離れて出雲市で下宿生活をしました。

中学ではサンフレッチェ広島の株組織に入団し全国にも二度出ました。

高校は立正大学淞南高校に進み、全国選手権にも出られました。

ただ、高卒でプロのサッカー選手になる夢は叶いませんでした。

隠岐の島には野球選手や相撲の力士はいましたが、サッカー文化もないところからプロのサッカー選手などいるはずもなく、「絶対自分が最初のJリーガーになる!」という気持ちが苦しいときの自分の支えでした。

 

ある日「高卒でプロになれないならサッカーを辞めます」と高校の監督に話をしました。

監督は、僕のプロを望む強い気持ちや普段の練習に取り組む姿勢を見ていてくれたのか、「こんなところで諦めるのか?」「今までの練習はここで終わるような軽いものだったのか?」とサッカーを辞めることを許してくれませんでした。

 

私は隠岐の島に居たときからある意味ずっと孤独を感じてサッカーをしてきました。しかし、この時自分には応援してくれる人・自分をちゃんと見てくれている人がいるんだ!と感じ、ポロポロと涙が溢れていました。

 

その後、半ば強制的に大学進学を決意し、びわこ成蹊スポーツ大学に入学しました。大学では、関西選抜や年間のアシスト王をとることができました。この時のチームメートや出会った指導者に恵まれカターレ富山から話をもらい、この富山と縁を作ることが出来ました。そして隠岐の島初のJリーガーになれました。

 

舞台はタイへ

プロ3年目を終え出場機会を求めてタイのブリラムというチームに移籍しました。いまやアジアの強豪に成長したブリラムですが、当時はクラブの会長が代わりビッグクラブを目指す方針を掲げて間もない時期でした。

 

外国人選手を次々獲得して結果が出なければ短期間で契約を解除していく厳しい環境下で、生き残ることだけを考えていました。

自分に何ができるか?他の選手より長けているものはなにか?を考えた結果、自分のプレースタイルは、熱帯の国で「チームの誰よりも走ること」でした。

この年にタイ国内で3冠を達成することができ、僕はチームの中心選手として活躍することができました。

タイに行ったことは間違いじゃなかったと今でも思います。

 

オファーが届いていると思っていたらトライアルからのスタート。アジアチャンピオンズリーグも本線から出場できると思っていましたが実際にはプレーオフから。チームのオーナーが選手を好き勝手にクビにする体質なので、いつクビにされるか分からない恐怖・不安の中毎日本当に死にものぐるいでサッカーに取り組みました。精神的に病んでタイ語を聞くのが嫌で不眠症にもなりましたね。

これらの経験で得られたのは、自分のプレースタイルと精神力でした。

J1セレッソ大阪へ移籍

ブリラムのスタメンとしてアジアチャンピオンズリーグに2年続けて日本で試合をしました。その時に対戦したセレッソ大阪からオファーをいただくことになり、タイの選手でも日本でできることを証明したいと考え2014年7月に移籍しました。

 

チームには、柿谷曜一朗さん、山口蛍さん、さらにウルグアイ代表のディエゴ・フォルランさんもいました。J1の高いレベルのチームで、無我夢中に頑張りました。

しかし、加入から3ヶ月した頃に急にスランプに陥ってしまったのです。この時の原因は自分でも分からず、気力が失われ身体も思うように動きませんでした。まさに負の連鎖で心身ともに苛まれ練習にも参加できないという日々が続きました。

当時は本当にきつかったですが、今考えると心に弱い部分があったというか、どこかに慢心があったのかなと思います。

 

プロを引退して大好きな富山へ

プロ生活を終え、サッカーをプレーすること、サッカー関係の仕事につくことは辞めようと決めていました。

 

セカンドキャリアに選んでいた大阪での仕事の話が破談になり、新たな仕事を探していたときに新庄クラブから話があり木村理事長の会社で働かせていただくことになりました。

サッカー以外の仕事をしたこともない社会人を受け入れてくれた恩返しをするには、社会人一年目として自分はサッカーをプレーすることしか力になれないと思い、もう一度サッカーを新庄クラブでプレーすることにしました。

やっぱり僕はサッカーが大好きなんです。